劇団四季 新作ミュージカル『ノートルダムの鐘』
フランスが生んだロマン派の世界的文豪
ヴィクトル・ユーゴー
今回の舞台の原作「ノートルダム・ド・パリ(Notre-Dame de Paris)」、また1本のパンを盗み、19年もの監獄生活を送ることとなったジャン・バルジャンの物語「レ・ミゼラブル(Les Misérables)」―これら不朽の名作を世に送り出したヴィクトル・ユーゴーは、フランスが生んだ世界的な文豪といえるでしょう。
ヴィクトル・ユーゴーは1802年、フランス東部の町ブザンソンにて、3人兄弟の末子として生まれました。父親はナポレオン軍の高級士官で共和主義者、母親はカトリック信者で王党派。
政治信条も宗教も異なる両親の下で、常に生活は波乱に富み、また父親の仕事柄、一家は転居を繰り返していたといいます。しかしこうした環境においても、兄弟は質の高い教育を受けていました。3人とも幼少期に、フランス語・ギリシャ語・ラテン語の文学的素養を身に付けるという早熟ぶりで、以降もスペイン語・英語・ドイツ語・イタリア語を次々と習得しています。
フランス革命からナポレオン帝政、王政復古と、変貌と発展を遂げた18世紀末から19世紀初頭。この頃ヨーロッパでは“ロマン主義”と呼ばれる精神運動が台頭してきました。これは、理性偏重の古典主義に背を向け、感受性や主観を重視しようというもの。中世への憧憬、恋愛賛美、民族意識高揚などを特徴にもちます。無論、ユーゴーも大きく影響を受けました。
1819年、ユーゴーはアカデミー・フランセーズの詩作コンクールで賞を獲得し、さらに兄弟で文芸誌を創刊。早くも作家の才能が花開き始めます。1822年には詩集「オードと雑詠集」により、国王ルイ18世から年金授与を受け、1823年には自身最初の小説「アイスランドのハン」を発表し、23歳という若さで国内最高勲章レジオン・ドヌールを受章しました。さらに1830年には戯曲「エルナニ」を著し、この上演が大成功を収めたことで、ロマン派の重鎮、指導者として地位と名声を確固たるものとしたのです。
そして1831年にいよいよ「ノートルダム・ド・パリ」を発表。人間が背負わなくてはならなかった宿命を生々しくも詩情に富んだ筆致で描き、そこから人生と社会を見つめた作品として高い評価を受けました。また中世への愛を表現し、中世芸術の復活を図ろうとした点においても、彼のロマン主義の集大成といえ、さらには後年の代表作「レ・ミゼラブル」(1862年)の姿をも遥か行く手に望ませている作品ともいわれています。
さて、このように仕事では順風満帆であり続け、以後、政治にも深く関わるユーゴーですが、私生活では身内の不幸な死や、妻の不倫、自身の国外追放など災難に見舞われていました。1885年パリにて死去。葬儀は国葬となり、その棺は偉人たちを祀るパンテオンへと埋葬されました。
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