こうした愛と憎しみが交錯する人間模様を、スタジオライフを中心に男優たちがドラマティックに演じ上げていく。倉田淳の演出には格調があり、決して安っぽいメロドラマに走ることなく、当時のドイツを支配していたナチスの優生思想をベースに敷きながら、人間たちの愚かで尊い悲劇を描いていく。
第1幕で印象に残ったのは、マルガレーテ役の松本慎也、少年フランツ役の澤井俊輝、そしてモニカ役の石飛幸治。松本の演じるマルガレーテは有無を言わさぬ美しさと、そばにいる人間が思わず手を差しのばさずにはいられない孤独と哀感があり、フランツ役の澤井は芯のあるまっすぐな声が少年の潔癖な正義感によく合っている。そしてモニカ役の石飛は、第1幕をかき回す存在として、じゅうぶんにその役目を果たしてくれた。
ある事件と共に第 1 幕は幕となり、第 2 幕ではそれから 15 年後の世界が描かれる。第二次世界大戦が終結したドイツで、青年となったフランツ(馬場良馬)とエーリヒ(松村泰一郎)が登場し、またミヒャエルの本当の父であるギュンター(曽世海司)も加わることで、人間模様はますます混沌を呈する。第2幕では青年フランツ役の馬場良馬が牽引。そして、全体を通す柱としてクラウス役の笠原浩夫の存在感が浮かび上がってくる。
フランツとエーリヒはなぜクラウスのもとを離れ、大道芸人として生活しているのか。マルガレーテはなぜ心壊れてしまったのか。そしてギュンターに近づくクラウスの目的は何なのか。本来人間がコントロールできるものではないものを選別し、それ以外のものを排他しようとしたナチスの傲慢と、ボーイソプラノに焦がれたクラウスの心酔が重なり、思い知らされる。人は決して神にはなれないのだ、ということを。
休憩含む3時間の大作だが、その果てに見えたものは、人は何かを強く欲すれば欲するほど、それを壊してしまうということだ。求めるから、強く握りしめようとする。強く握りしめるから、いとも容易く壊れる。残骸を拾っても、もう元には戻らない。クラウスのエーリヒへの愛。フランツのエーリヒへの愛。そしてフランツのマルガレーテへの愛。この悲劇の指揮者となったのは、はたしてどの愛だったのだろうか。
東京公演は3月8日(日)まで紀伊國屋ホールにて上演。その後、大阪に場所を移し、3月13日(金)から15日(日)まで近鉄アート館にて上演予定。
(文:横川良明)