ストーリーは確かにシェイクスピアの戯曲「マクベス」に違いない。登場人物の名前も原作そのままだ。しかしよくある翻訳劇とは全く違うし、単に日本に置き換えたというような単純なものでもない。歌舞伎とか現代劇といったジャンル分けはナンセンス、あえて何かカテゴリーを考えるとタイトル通り、“NINSAGAWA”スタイル、日本の習慣や風習が浮き上がって見えてくるし、日本人の感性や宗教観、道徳も見えてくる。そこにシェイクスピア戯曲の根底にある哲学や世界観を掛け合わせる。舞台上には終始、上手と下手に老婆、時には関係なく串団子を食べていたり、持参した道具を手でいじったり、かと思えば舞台上で起こっていることを凝視したり、手を合わせたり、涙したりしている。傍観者とでもいうのだろうか、しかし、舞台の始まりは老婆が仏壇の扉を開けるし、終わりには扉を閉める。物語とは別の次元に存在しているが、あえてそこにいる意味、解釈は多様に捉えられる。「マクベス」の冒頭の台詞「いいは悪いで悪いはいい」と言う。この曖昧な台詞はずっと作品の根底にある。何が間違っているのか、何が正しいのか、白黒つけない、つけられない、マクベスの行動は人間の深層を垣間みることが出来る。魔女の予言、王位に対して野望を持ち、妻もまたそれを知り、夫の背中を押すことになる。夫のためになるなら……マクベス夫人の行動は一般常識にあてはめると容認しがたいが、共感は得られる。全ては夫のため、つまりそれだけ愛が深いことに他ならないのだという解釈が出来る。マクベスと夫人との間にある確固たる信頼感、それはこの物語を支える大きな要素だ。さらにマクベスは己の野望のために画策するが、これもまた作品の重要な要素で夫人もそのことをうっすらと気づいている。
舞台上のドラマはダイナミックに展開、シェイクスピアファンならその後の結末も知っているのだが、それでも舞台を凝視してしまう。罪悪感に苛まれる主人公、王を殺した後の手や服についた血、魔女の予言に翻弄され、壊れていく。勇猛果敢な武将である姿とは裏腹な小心なところもあるマクベス、その末路は哀れであり、凄惨、そんな男の末路をスペクタクルで圧倒的なスケールで魅せる。観ていると、もしかしたらこんな武将もいたかもしれないという錯覚にも陥る。最後は舞台にずっといた老婆2人が仏壇の扉を閉める。これがNINAGAWAマジックなのだろうか、唯一無二の作品、世界中で今後も上演され続けることであろう。